のんびりスーキーさんの体験記



         
 退行性変形性股関節症 

         
 右人工股関節全置換手術(2010年7月)

         
 左人工股関節全置換手術(2010年12月)


      
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その1

手術前の状態ー発端

1998年、母の入院でしばらく休んでいたジョギングを再開しようと外にでたら、足が前に出ませんでした。
突然の出来事でした。
足を引きずって家に戻り、床に倒れました。
どうした事でしょう?

母が入院していた病院の整形外科を受診したら、変形性股関節症で、すぐに手術をするように言われました。

レントゲンでは、関節の間にはまだ隙間がありました。
人工股関節の耐用年数が15年で、当時私は49歳。
う〜ん、手術するなら一生で一度にしたい、60歳位まで待てたら、と思いました。

ハーバード大学で股関節手術を勉強なさったというK先生、関節の突起を指差して、
「グルコザミンなんか飲んでるからこんなのが出て来るんだ。手術しなさいっ!」

たまたま待合室にいらしたおばあちゃまに伺いました。
「何が辛かったって、3週間ベッドに寝たきりで、トイレに行けなかった事で。」。。。

「エエッ!?」

とても耐えられない、逃げるしかない、と思いました。
(その方は別の手術(RAO?)をなさったのだと思いますが。)

病院の売店で変形性股関節症の本を買い、『のぞみの会』の事を知り、保存療法を試す事にしました。

1. 毎日プールで泳ぐ。
2. 体重54キロ厳守(ちなみに身長は164センチ)
3. 股関節体操ーのぞみの会のパンフレットによる

を始めました。

経過−−保存療法の効果

1、毎日のプールは効果がありました。
痛みと歩きが楽になりました。

2、減量と体重管理は、炭水化物を断つ(少なくする)だけで、簡単にできました。
我が人生で最高に太っていた時だったので、7キロ減量しました。

3、体操は、7種類あり、全行程30分掛かりました。
即効は特には感じませんでしたが、足首におもりを付けて、出来る限りやっていました。
お尻と背筋の弱さを感じましたが、強くする事が難しかったのを覚えています。

1999年は、母の看病で、ずうっと東京にいました。
逆発信で、アメリカには八回行きました。
成田を発つ当日もプールで必ず泳ぎ、股関節体操をしてから飛行機に乗りました。

アメリカと機内は空気が乾燥しているので、楽でした。
成田に着くなり湿気を感じ、それが股関節に良く無いと思いました。

2002年
春になり、気温と湿度が上昇すると、左股関節が刺すように痛み、1−2日ベッドから起き上がれない事がありました。
背中の前屈が始まりましたが、股関節が原因とは思わなかったので、家の中で朝ハイヒールを履いたり、
つま先歩きをしたり、姿勢の矯正を試みていました。

夏には講習会で、ニュージャージーから、五大湖近くのペンシルヴァニア州アルゲニー、オハイオ州コロンバスへ行きました。
帰りは770キロの距離を、ひとりで一気に運転しました。
この頃も行く先々で、毎日泳いでいました。
時々辛さを感じながらも、皆と同じように行動していました。
立ち続ける事と、5センチ高さのヒールが、苦手になっていました。

ところが、2004年、毎夏参加していたバンクーバーでの古楽音楽祭。
とうとう松葉杖での参加となってしまいました。

カナダはアメリカとは全く違った国です。
空港では、松葉杖の私を見るなり、"This way please! "(こちらへどうぞ!)と入国審査では真ん前へ。
宿舎では、身障者用の車椅子対応の部屋が与えられました。

会場はブリテッシュコロンビア大学でした。
海に面した美しく広大なキャンパスを、歩き回るのが困難になっていました。

食堂に行くのが大変になり、大きな冷蔵庫、オーヴン、電子レンジ等がある自室で自炊。
買い物はバンクーバー在住のピアニスト、AKさんが車で連れて行ってくださいました。

それでも毎朝、皆にクッキーやタルト等のお菓子を自室で焼いて持って行く体力がありました。
バンクーバーは八月初め、ブルーベリーやレッドチェリーがシーズンになります。
ブルーベリーのヨーグルトケーキ、ヘルシーでしょ?
好評でしたよ。

たまたま出会ったカナダ人女性医師から
「今は血流さえあれば何でも再生できる時代だけど、残念ながら股関節には血流がないから、再生が難しいの。
あと10年は掛かるでしょうね。」と言われました。

う〜ん、10年、待てるかしら?
できるなら待ちたい、と思いました。

Minimum Invasive Surgery 

この頃になると、周囲の人達が皆、「手術したら?」と言い始めました。
「私が世話してあげるから。」と言う人もいました。

丁度 アメリカでもMinimum Invasive Surgery がマスメデイアに取り上げられた頃でした。
ナビゲーションシステムで傷を小さくでき、回復が早い。
70代の人でも術後テニスを楽しんでいる写真が、雑誌に載っていました。


グーグルで調べたら、札幌のI先生のサイトが大きく出て来ました。
「へえ、日本のお医者さんが有名なの?」

そこで日本に帰った時、I先生にメールを差し上げました。
すぐにお返事を頂き、電話でもお話する事ができました。
ナビゲーションシステムは、「レントゲンを見ないと出来るかどうか分かりませんが、レントゲンを送ってくだされば
見て差し上げますよ。アメリカの医師は慣れていて巧いですから、アメリカでするのも一案ですよ。」とおっしゃいました。

(その頃はMinimum Invasive Surgery と言えば、ナビゲーションシステムの事だったように思います。)


日本かアメリカか

私は年取った両親の入院で、日本のお医者様や看護婦さん達の細やかな神経やケアを見ました。
とても心が温まりました。

日本の医療システムは世界的にも有名でした。

体質や体温などが日本人は白人とは違います。

アメリカでは通常、手術後2日程で退院させられる為、抜糸やガーゼ交換、リハビリ等を全て訪問看護師に
頼らなければなりません。患者の負担が大きくなります。

手術を日本でする事に迷いはありませんでした。

細やかな神経の日本人医師。
うん、それが一番!
イメージがはっきりしました。

病院探し

札幌に行く事を考えました。
でも私の場合、札幌から東京で終わりではありません。
更に成田から、12時間余りの長旅があります。
手術は家族も巻き込むので、家の近くが良いと言う記事も読みました。
東京で捜そう!
決まりました。

たまたま「患者さん達が明るく、東大系だからいいのよ。」と日大板橋病院 を薦められたので、行ってみました。
Minimum Invasive Surgeryは、中の方が助手の医師に見えないので、表面の傷が小さくても、中の方の傷が
大きくなり、もうやっていない、と言われました。

この病院は私の家からは不便で、全体的に何となくピンと来ませんでした。

インターネットで更に検索し、2006年には、東京医科歯科大学病院を受診しました。
その時お会いした山内先生は本当にお若くて、30歳そこそこにお見受けしましたが、レントゲン写真を見るなり、
「あ、これは日本の女性に多いタイプで、骨盤のカップの受け皿が小さいのです。」とおっしゃいました。

それまで2件の病院で、「太っていましたか?」「重い荷物を持っていましたか?」と身に覚えのない事ばかりを
聞かれていたので、「この医師の言う事は違う!」と思いました。

更に、「手術したら自分の関節は戻ってきませんから、手術のメリット、デメリットを良く考えて決めてください。」
とおっしゃっいました。

私にとって、納得できるお医者様でした。


手術の予約

良いお医者様は見つかりましたが、手術の決心は、なかなかつかないものです。

2008年、山内先生が「今の待ち時間は2年です。」と言われました。
(待ち時間は、常に1年だったようですが。)

この頃には、日常の行動がかなり制限されていました。
歩きはよちよち。お辞儀もできない。すぐに疲れる。空港では車椅子サービスを利用。
教会でオルガンを弾いていましたが、足が開かないので、足鍵盤で苦労。
床の物を拾ったりするのにマジックハンド、靴下を履くのにソックスエイドを常用。
夏には400キロ南、メリーランドでの講習会に行きましたが、運転が超苦痛。
講習会の最中も、痛みがひどい時は、床に寝っ転がっていました。

う〜ん、2年後、2010年。
丁度アメリカでのビザの切り替えの年。区切りの年。
それに2年後は、まだまだ先の話し。
そう考えて予約しました。

手術ヘの準備

と言っても、毎日忙しく、手術は考えたくなく、現実感はありませんでした。

2010年1月、山内先生からメールが来ました。
先生が6か月前に予約してくださったMRIのリマインダーでした。

「ああ、駄目だ。もう逃げられない。」

この時、初めて手術を実感しました。
                                           
一気に恐怖感に襲われました。
術後麻酔から目覚めたとき、何を感じているのだろう。
痛み止めが効かなかったら?
身体の調子が悪くて膿んじゃったら?
とんでもない事が次々と頭に浮かびます。

「怖がらないで。」と80歳の私の師、シーラが言いました。
「痛みは全くないわよ。足を初めて動かされる時は痛いけど、でもそれが良いの。」

だんだん覚悟が決まって来ました。
状態もどんどん進行してきましたので、今が潮時、とも思いました。

『ベストを準備して、ベストの状態で手術を受けよう。そしてベストの回復を目指そう!』

手術への準備が始まりました。
思えばラストスパートでした。

1 体重管理
2 筋トレ
3 ソフトカイロ
4 ヘモグロビンの値を上げる。

1、体重は50キロに落とし、股関節周囲の脂肪をなくそうと努力。
脂肪があると、手術の際、傷が深くなってやり難い、痛みもひどい、と単純に考えたためでした。

カロリーとメタボリズムを考えて一度に沢山食べない、夜は食べない、甘いものは食べない、と徹底しました。
有酸化運動(腕だけでやる)も効果あり、毎日6分間。
(でもこの頃はひどくやせて、顔色が悪かったらしいです。)

2、筋トレは、フィットネスセンターと自宅での2種類。

2009年夏から始めた機械を使ってのトレーニング。
コンピューターが各人に合った設定を記憶していて、トレーナーのごとく導きます。
11種類の機械で週3回していましたが、手術前、股関節関係は毎日に。
(レッグカール、レッグエクステンション、腹筋、下半身の背筋。)

自宅での筋トレは、2008年に山内先生から指示されたもので、15分行程。
お尻つぼめ、片方ずつの膝押しと足の横上げ。
夫々5秒ずつ10回、中1秒のインターバルで1種類1分間。
5分1セットで毎回3セット。
タイムウオッチ片手に、5秒間は集中して力一杯プッシュ。
毎朝毎晩、いくら疲れていても、手術の為、と励みました。

3、神経を刺激して、脊椎を真っすぐの状態にするソフトカイロ。
姿勢を改善し、歩きを楽にしました。

股間節手術では、ステムをまず仮にいれて足の長さを見るそうです。
真っ直ぐな脊椎は、その際、より正確な情報を外科医に与える、と考えました。
術後の回復も助ける筈です。

これは力学療法とカイロから得た知識で、賛否があると思います。
が、術前1か月は、毎週3回、休まずに通い続けました。

4、若い時はひどい貧血でした。
自己血採血から手術までの日数が少ないので、手術での出血に備え、赤血球(ヘモグロビン)の数値を
出来るだけ上げようとしました。
緑の葉物に加え、普段は食さないお肉(レッドミート)やレバーを食べ、サプリメントで鉄剤も取りました。



            


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